■原子の灯■
1938年クリスマスも近いある日、ドイツの小さな実験室で、原子物理学の実験が行われた。この実験は、やがて地球と人類を、破滅の縁にまで追い込むことになる。化学者オットー ハーンは、ウランの原子核に中性子を衝突させると、割れるはずのない原子核が分裂することを確認したのである。その分裂の際に、膨大なエネルギーが放出されることも、のちに確認された。
著名な物理学者フェルミは、この核分裂を連続的におこせば、膨大なエネルギーが取り出せるかもしれないと考えた。というのも、核分裂のさいに、2、3個の中性子が放出され、それぞれの中性子は隣のウラン原子核に衝突し、連鎖的に核分裂を起こすと考えられたのである。核分裂の回数が多いほど、放出エネルギーも増え、結果、膨大なエネルギーが放出されることになる。
1942年12月2日、フェルミらは、シカゴ大学の粗末な原子炉で、歴史上初めて、核分裂を連鎖的におこすことに成功する。原子の灯がともったのである。このささやかな実験が、広島と長崎に落とされた原子爆弾の起源となった。地球人類の忌まわしい未来が、歴史年表に刻まれた日である。
一方、ハンガリー人の学者レオ シラードは、オットー ハーンの実験から、核分裂が原子爆弾につながることを予見した。もし、ナチスドイツが原子爆弾の製造に成功すれば、世界は破滅する。そこで、世界的な科学者アインシュタイン博士の名をかりて、アメリカ合衆国大統領ルーズベルトに、原子爆弾の開発を進言する。しかし、ルーズベルトは、直ちに行動をおこすことはなかった。話の内容が、あまりにも突飛で、にわかには信じられなかったのかもしれない。しかし、原子爆弾の可能性は、徐々に現実味をおびてくる。
■原子爆弾 製造計画■
1942年6月、ルーズベルト大統領は歴史的な国家プロジェクトを発足させる。目的は原子爆弾の製造、コードネームはマンハッタン計画と命名された。原子爆弾の標的は、当初ドイツだったが、完成前にドイツは降伏、結果、製造された原子爆弾は広島と長崎に投下されることになる。
マンハッタン計画の総責任者には、リチャード グローブス准将が任命された。また、研究施設はニューメキシコ州のロスアラモスにおかれ、第一級の研究者たちが集められた。この計画は、おそらく、歴史上最大規模の科学プロジェクトであった。数年という短期間に、これほどのヒト モノ カネを投入したプロジェクトは少ない。同じ第二次世界大戦中、ドイツが行った長距離弾道ミサイルV2ロケット計画もその一つだが。
この超弩級プロジェクト マンハッタン計画は、4年間で、5万人の科学者と技術者が投入され、20億ドルを使い切った。20億ドルは、現在の貨幣価値で2兆円、当時の日本の一般会計の約35倍という、とてつもない額である。結果論にすぎないが、日本がアメリカとの戦争に勝てる見込みなどなかったのだ。
また、実際に使用された原子爆弾は、広島と長崎にそれぞれ1発ずつ、つまり、1発1兆円の爆弾であった。さらに、広島と長崎が受けた被害もくわえれば、損害はとてつもない金額になるだろう。むろん、広島と長崎で失われた35万名もの人命は、取り返しがつかない。やられる前にやる、味方の損害を少しでも減らす、これは戦争の鉄則だろう。だが、何ごとにも程度がある。誰がどのように正当化しようとも、広島と長崎に投下された原子爆弾は、歴史上まれにみる狂気なのだ。
一方、このプロジェクトは量のみならず、質においても破格であった。ノーベル賞受賞者のフェルミをはじめ、のちにノイマン型コンピュータを提唱するジョン フォン ノイマン、天才とうたわれた若き日のリチャード ファインマンもそのメンバーであった。ファインマンは、のちに、日本の朝永振一郎博士とともに、ノーベル物理学賞を受賞する。また教育者としてもすぐれ、量子力学の素晴らしい教科書も残している。
このような世界のトップレベルの科学者をかき集め、そのトップにオッペンハイマーが任命された。やがて、彼は『原子爆弾の父』とよばれ、栄光と破滅の数奇な運命をたどることになる。
■オッペンハイマー■
オッペンハイマーはユダヤ人であった。移民の子としてニューヨークに生まれ、幼年期より特別の才能を現した。飛び級でハーバード大学に入学、25才でカルフォルニア大学の物理学の助教授、32才で教授になっている。
専門は、化学、物理であったが、語学でも並はずれた才能をしめし、様々な文学を原書で楽しんだといわれる。のちに、原子爆弾の開発者である自分自身を『われは死神なり、世界の破壊者なり』となぞらえたが、これはヒンズー教の教典『バガヴァッド ギーター(神の歌)』から引用されている。バガヴァッド ギーターは、世界最大の叙事詩『マハーバーラタ』の中で、クリシュナ神が武人のとるべき態度を説いた部分で、ヒンズー教の最高の教典とされている。いずれにせよ、オッペンハイマーが天才の世界の住人であったことは間違いない。
オッペンハイマーは、元々は宇宙のブラックホールの可能性を示唆した研究者であった。恒星は、燃え尽きたあと、重い中性子だけからなる超高密度の塊へと変化する。その結果、1辺が1cmのサイコロサイズで10億トンというすさまじい密度になる。そして、質量が太陽の3倍を超える恒星では、中性子星という形態すら維持できず、ブラックホールと化す。オッペンハイマーはこのブラックホールの開拓者であった。
あの原子爆弾の開発計画さえなければ、オッペンハイマーは、天文学や物理学の世界で大きな功績を上げ、幸福な人生を歩んでいたかもしれない。だが、歴史の神は、彼をプロメテウスに仕立てたのである。プロメテウスは人間に火を与えた罰として、永遠にハゲタカに内蔵をついばまれるという恐ろしい刑を受けたが、オッペンハイマーも同じような運命が待っていた。
1945年7月17日、オッペンハイマーは、ついに核爆発の実験に成功する。さらにその後、実戦用の原子爆弾を2個完成させたが、その1つは広島に投下されたリトルボーイ、もう1つは長崎に投下されたファットマンであった。原子爆弾の実験結果に対し、彼は非常に満足げだったといわれる。しかし、原子爆弾が現実に広島と長崎に投下され、その惨状が伝えられたのちは、心境が複雑に変化していく。やがて、核兵器開発に否定的になり、ロスアラモス研究所を辞任に追い込まれ、一切の公職を追われたのである。
原子爆弾に直撃された広島と長崎の映像を見れば、オッペンハイマーの心境もよく理解できる。昔、物理の世界にいる人からオッペンハイマーにまつわる話を聞いたことがある。オッペンハイマーは戦後、湯川秀樹博士をはじめ、日本の学者がアメリカで研究できるよう尽力したという。そして、実年齢より、はるかに老けて見えたという。日本への、何かしらの思いがあったのだろうか。急速に老け込むほどの苦悩があったのだろうか。オッペンハイマーは、自らが開発した核兵器の廃絶を訴えながら、この世を去った。
■マンハッタン計画■
戦争に兵器開発はつきものだし、実際、第二次世界大戦中には、様々な兵器開発が行われた。だが、このような巨大プロジェクト、マンハッタン計画は本当に必要だったのだろうか?この計画は当初、十分すぎる大義名分があった。ナチスドイツが先んじて原子爆弾の開発に成功すれば、連合国側が受ける損害は計り知れない。地球規模の破壊をもたらす可能性もあった。結局、被害を受けたのは広島、長崎だけだったのだが。
いずれにせよ、このような理由で、異常とも思える方法でプロジェクトはすすめられた。開発の原則として、いくつかの方法があると、各方法を吟味し、見込みのある方法に集中する。しかし、この計画では、見込みのなさそうな方法も、並行して実行された。ヒト モノ カネに糸目をつけなかったからである。
しかし、結論からいくと、アメリカはあわてる必要はなかった。連合国軍が、ドイツに進軍し、原子爆弾開発の状況を調査をしたところ、ドイツは原子爆弾を完成させる見込みなどなかったからである。原子爆弾の製造は、当時、それほど困難な事業であった。原料であるウラン鉱石を入手することも困難だったが、爆発に必要な量のウランを抽出し、濃縮することはさらに困難であった。また、膨大な電力を必要とし、そのための発電所も必要だった。
日本でも、原子爆弾の製造計画は存在したが、早々に断念されている。そのときの日本の科学者の説明は、つぎのようなものであった。原子爆弾の製造は極めて困難で、したがって米国でも製造はムリであると。しかし、そのムリと思われたことが現実となる。
■原子爆弾 投下■
1945年8月6日、広島上空で、原子爆弾が放たれた。人類は、ついに原子兵器を使ったのである。瞬時に6万6000人が死亡し、市の60%が崩壊。最終的に、20万人もの人々が死亡した。そしてつづく8月9日、長崎にも原子爆弾が投下され、市の人口の2/3が死傷した。
大学時代、同じ下宿に広島出身の後輩がいた。彼は、毎年この日が近づくと同じ夢をみるのだと言う。8月6日早朝、彼は広島の町に立っている。やがて原子爆弾を投下されることを知っている彼は、町中を大声で叫びながら走り回る。
「原子爆弾が落ちる、逃げろ、逃げろ」
必死で叫ぶのに、不思議と声が出ず、誰も気づいてはくれない。やがて、真っ白な閃光が天空をおおい、夢は終わる。彼は、この原子爆弾でほとんどの親戚を失っている。毎年、8月6日が来るたびに、この後輩を思い出すのである。
by R.B |