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 週刊スモールトーク (第20話) ウルバンの大砲 〜コンスタンティノープル陥落〜

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ウルバンの大砲 〜コンスタンティノープル陥落〜

■イスタンブール
 イスタンブールはエキゾチックな街だ。雄大なボスポラス海峡をはさんで、ヨーロッパとアジアが共生する地球唯一の街。かつては、キリスト教・東ローマ帝国、イスラム教・オスマン帝国の帝都であった。なんとも華々しい歴史をもつ街である。

 イスタンブールは、街並みはヨーロッパなのだが、どこかホコリっぽくてアジアの匂いがする。ところが、街の合間からモスクが見えると、あぁ、イスラムの街なんだ、と我に返る。とても不思議なカンカク。だから、”エキゾチック”。

 モスクは人間が造りだした最も美しい建造物の一つだ。球形の屋根に幾何学模様の壁面、建物というよりは複雑な立体パズルにみえる。4〜6本のミナレット(尖塔)が建物を囲み、これがまた絶妙のバランス。ボリューム感があるのに威圧感はなく、威厳に満ちて壮麗。それが、周囲の喧騒と見事に調和している。

 イスタンブール一番のバザール「カパール チャルス」に行けば、アラビアンナイトの世界にひたれる。細長い通りをはさんで、たくさんの小さな店が並ぶ。店の照明はまばゆいばかりで、日用品、レコード盤、怪しげな雑貨が無造作に並べられている。どれもこれも、アラジンの魔法のランプに見えるのが不思議だ。まさに、子供の頃読んだアラビアンナイトの世界

 ところが、イスタンブールを少し離れると、違う世界が見えてくる。イスタンブールから電車で15分、イェディクレ駅に降りる。小さな町だ。空腹だったので、近くのパン屋に入った。日本人だとわかると、店の主人が「ショーグン、ショーグン」と声をかけてくる(サラリーマンなんですけど)。

 「ショーグン」は島田陽子が出演したアメリカのTVドラマ「将軍 SHOGUN」のことで、日本とアメリカで好評だったが、トルコでは大好評だったらしい。まさか、地球の裏側で「ショーグン」を話題にするとは思わなかった(トルコは英語が通じる)。その店で、パンを買うと、大きなパンを数個サービスしてくれた。嬉しいけど食べきれない ・・・

■大砲の街
 イェディクレ駅から少し歩くと、高さ30mほどの城壁がある。レンガか石を積み上げたもので、歴史の重みを感じさせる。色にもこだわりがあるようで、灰色の石にワンポイントの茶色がまじっていて、けっこう洒落ている。

 城壁の中に入ると、一瞬、タイムスリップしたような錯覚をおぼえる。まるで、別世界で、中世ヨーロッパの古城を彷彿させる。中庭に異様な物体が転がっていて、目をこらすと、直径60cmほどの石球。こんなもの一体何に使ったのだろう?じつは、正体を明かすと、大砲の砲弾なのだ。

 1453年、オスマン帝国は東ローマ帝国の帝都イスタンブール(当時はコンスタンティノープル)を攻略した。ところが、コンスタンティノープルの城壁は並外れて強固で、破砕するには巨大な大砲が必要だった。その時使われた砲弾がこの石球である。つまり、中庭の石のオブジェは、かの東ローマ帝国を滅亡させた超兵器のなごりだったのである。

 イスタンブールは歴史の古い町だ。ヨーロッパとアジアの境にあり、黒海と地中海を結ぶ接点でもある。地政学上の要衝で、何度も侵略を受けた。歴史年表に登場する侵略者たちの顔ぶれも多彩だ。アラブ人、トルコ人、ブルガリア人、そして十字軍。この中で、最も重要な事件は、オスマン帝国による征服である。なぜなら、この事件を境に、イスタンブールがキリスト教国からイスラム教国になったからである。

■オスマン帝国
 この頃、イスタンブールはコンスタンティノープルと呼ばれていた。330年にローマ帝国の帝都となり、当時のローマ皇帝コンスタンティヌスにちなんで命名された。その後、コンスタンティノープルは幾度となく侵略を受けたが、1000年も生きながらえたのである。

 ところが、1299年、東方にオスマン帝国が出現する。イスラム世界において、最も成功した帝国の一つである。初代オスマン1世の時代、すでにコンスタンティノープル攻略の計画があったが、その意志は、代々のスルタン(王)に受け継がれた。そして、バヤジット1世の治世で国力は頂点に達する。

 ところが、同じ時代、同じ地域に、もう1人の英雄が現れた。ティムールである。ティムールは、無敗のままこの世を去ったたぐいまれな戦上手だった。名君の誉れ高いバヤジット1世も、ティムールに敗北、捕虜されてしまう。こうして、オスマン帝国は天国から地獄、一転して存亡の危機に立たされる。ところが、ティムールの死後、ティムール帝国は急速に弱体化していく。こうして、オスマン帝国は息を吹き返した。

 1451年2月、メフメット2世は、21才の若さでオスマン帝国第7代のスルタンとなった。度量が広く、経略の才に富み、オスマン史上最も偉大なスルタン(王)とされる。さらに、彼は運にも恵まれた。国庫は潤沢で、兵も精強、曾祖父バヤジット1世を倒したティムールのような強敵もいない。

 若くて、聡明で、野心に満ち、世界最強の帝国の王となれば、考えることは一つ。世界征服だ。メフメット2世は即位と同時に、キリスト教世界の牙城コンスタンティノープル攻略にとりかかった。

■ウルバンの大砲
 その頃、ウルバンというハンガリー人技術者がオスマン帝国の宮廷にやってきた。巨大な大砲を造れると吹聴する怪しい人物だったが、歴史を変える運命(ほし)を背負っていた。ウルバンが、ヨーロッパを捨てて、オスマン帝国まで来たのは、自分の夢を叶えるためである。この頃、ヨーロッパの大砲は、速射を優先した小型の大砲が主流だった。そのため、ウルバンの巨砲は相手にされなかったのである。

 ウルバンはメフメット2世に、熱心に自分の大砲を売り込んだ。自分が造る巨砲は、コンスタンティノープルの城壁さえ撃ち抜くと。ところが、家臣は誰一人信じなかった。コンスタンティノープルの城壁は鉄壁で知られ、歴代のイスラム王朝ですら、落とせなかったのである。たかが大砲一つで、歴史を変えられるはずがない。ところが、メフメット2世はこの山師に賭けた。この瞬間、東ローマ帝国の運命は決まったのである。

 ウルバンの大砲は、砲身長が6mもあり、重さ300kgの石弾を1.6kmも飛ばすことができた。ただ、大きすぎて、重すぎて、そのままでは移動できない。そこで、砲身を2つに分けて運び、現地で接合された。

 ウルバン砲は、石弾を発射すると、石弾との猛烈な摩擦熱で砲身が焼けつく。ムリに連続発射すれば、熱で大砲が破裂する。そのため、砲身の熱が冷めるまで待つ必要があった。ウルバン砲は青銅を鋳造した丈夫なものだったが、連続発射には耐えられなかった。連続発射が可能になるのは、鋼鉄製の強化砲身が発明された後である。1453年、ついに、ウルバンの大砲は完成した。コンスタンティノープル攻略の準備が整ったのである。

 1453年4月、15万のオスマン帝国軍が、1万のキリスト教徒が守るコンスタンティノープルを包囲した。コンスタンティノープルが陥落すれば、ヨーロッパのキリスト教国はイスラム教徒の脅威にさらされる。まさに、歴史的な攻城戦であった。4月18日ウルバンの大砲が一斉に砲撃を開始。アラーの神ですら破壊できないと思われた鉄壁があちこちでほころび始めた。どんな堅牢な要塞でも、重さ300kg の石弾が直撃すれば、ただではすまない。城壁に穴があけば、突破口ができる。あとは、歩兵が突撃するだけだ。

■歴史上最大の大砲
 じつは、大砲によって戦局が決した戦いは、歴史上あまり例がない。近代では、第二次世界大戦のセバストポリ要塞の攻略がある。奇遇なことに、セバストポリ要塞はコンスタンティノープルと黒海をはさんで対峙している。しかも、500kmしか離れていない。そして、この2つの街に共通するのは、地政学上の要衝、つまり、争奪の的だった。

 セバストポリは、黒海から突き出たクリミア半島に位置し、古代より良港として知られていた。18世紀、ロシアは黒海艦隊を創設し、その基地をセバストポリにおいた。ヨーロッパで不凍港を持たないロシアは、セバストポリを拠点に、南下政策をもくろんだのである。これに危機感を抱いたのが、イギリスとフランスで、サルディニア、オスマントルコを巻き込み、ロシアに戦いをいどんだ。これが、1853年のクリミア戦争である。この戦争で、イギリス フランス連合軍は、セバストポリ要塞を1年包囲したが、11万人もの損害を出している。

 そして、クリミア戦争の90年後、ロシア軍が守るこの要塞を、今度はドイツ軍が包囲した。このときのセバストポリ要塞は、クリミア戦争当時よりさらに強化されていた。無数の堡塁が市街をとりまき、迷路のような防衛ラインを形成していた。兵力10万、大砲600門が配備され、最強の大砲を装備したマキシム ゴーリキ砲台は、装甲の厚さが30cmもあった。さらにその地下のコンクリート施設の天井は厚さは4m。まさに難攻不落の大要塞であった。

 1942年6月、マンシュタイン将軍率いるドイツ第11軍は、セバストポリ要塞への攻撃を開始した。マンシュタインは、第二次世界大戦中、ドイツ陸軍で最も有能な指揮官として知られる。知名度で優るロンメル将軍が巧妙で迅速な戦術を得意としたのに対し、マンシュタインは大軍を操る大戦略を得意とした。マンシュタインは、大胆かつ巧妙な戦略でドイツ陸軍を何度も破滅から救っている。

 マンシュタインは、セバストポリ要塞を力まかせに攻めるつもりはなかった。500年前メフメット2世同様、ムリをせず、単純な方法を用いたのである。大型の大砲、それも想像を絶するほどの巨砲

 マンシュタインは、要塞の前面に1300門もの大砲を並べたが、中でもグスタフ砲は正真正銘の巨砲だった。総重量1350トン(自動車1300台分)、口径80cm、砲身長32m、砲弾の全長は2.15mで重さ7トン、射程距離は40kmという超弩級の大砲だった。道を移動すれば大地にめり込むので、列車で運ぶしかなかった(列車砲)。

 グスタフ砲は見てくれも凄いが、破壊力も規格外だった。砲弾の着弾点には直径30mものクレータができたという。まるで、隕石衝突である。この戦闘で、グスタフ砲の巨弾がセバストポリ要塞の地下30mを突き抜け、弾薬貯蔵庫で炸裂し、大爆発を起こした。こうして、防衛ラインは突破され、歩兵の突撃が始まった。

■コンスタンティノープルの最期
 メフメット2世のコンスタンティノープル攻略も、同じような経緯をたどった。1453年5月29日、ウルバンの大砲が城壁を撃ち抜き、その裂け目から、歩兵が突撃を開始した。ところが、2回突撃し、2回とも撃退される。コンスタンティノープルは、イスラム教徒からキリスト教世界を守る最後の砦。もし、陥落すれば、ヨーロッパ全土がイスラム教徒の脅威にさらされる。街を守るキリスト教徒も必死なのだ。

 業を煮やしたメフメット2世は、ついにイェニチェリの投入を決断する。イェニチェリとは、スルタン直属の精鋭部隊である。キリスト教徒の奴隷を幼少より訓練し、イスラム教に改宗させたエリート兵士。結婚も禁じられ、厳しい規律と忠誠心が課せられた有機体戦闘マシーンである。イェニチェリは、すでにヨーロッパで恐怖の的だった。

 メフメット2世の作戦はあたった。イェニチェリが突撃に成功したのである。それに続いて、オスマン全軍がコンスタンティノープル城内になだれ込んだ。万事休す。しかし、東ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスはひるまなかった。身の安全を保証する降伏勧告を拒絶し、ローマ皇帝の深紅色の正装を身にまとい、自ら剣をとって戦ったのである。そして、名もない兵士によって殺された。その後、皇帝の遺骸は死体の山の中から捜し出され、首は宮殿前の円柱の上にさらされた。ローマ帝国の最期を飾るにふさわしい皇帝であった。

 こうして、イスラム王朝の歴代のカリフたちが、城下まで迫りながら突破できなかった鉄壁を、ウルバンの大砲が崩壊させたのである。

参考文献:
ジェフリー パーカー「同時代史的図解世界史」帝国書院
前嶋信次「世界の歴史8 イスラム世界」河出書房

by R.B

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