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週刊スモールトーク (第42話) V2ロケット(1)~ドイツの秘密兵器〜

カテゴリ : 戦争科学

2006.04.14

V2ロケット(1)~ドイツの秘密兵器〜

■秘密兵器V2ロケット

第二次世界大戦のさなか、イギリス航空省・科学情報部に、奇妙な情報が持ち込まれた。情報元はオスロのレジスタンスで、バルト海沿岸のペーネミュンデで、ドイツ軍が秘密兵器を開発しているというのだ。ペーネミュンデはウーゼドム島にある人口500人の小さな村で、そこで、リモコン式のグライダー爆弾や長距離ロケットが開発されているという。

この頃、イギリスはドイツ軍の兵器開発をさぐっていた。担当部署は航空省の科学情報部で、責任者はR・V・ジョーンズという若い科学者だった。ジョーンズは切れ者で知られたが、この情報はさすがに首をかしげた。リモコン操作でグライダー爆弾を飛ばしてみたところで、戦果はしれている。長距離ロケットにしても、大砲の延長だろうし、戦況を左右するとは思えない。こうして、この奇妙な情報はそのまま忘れられた。じつは、これがイギリスにもたらされた最初のV2ロケット情報だったのである。

V2ロケットは、後に、ロンドンに向け1359基も発射されたが、当時、そのような事態を予測をする者はいなかった。というのも、V2ロケットは、当時の理解を超えていたからである。V2ロケットの飛行原理とテクノロジーは10年先を行き、まだ概念すらないものもあった。

■ドイツ空軍

この情報がもたらされた頃、イギリスはドイツ軍の猛攻からやっと一息ついたところだった。第二次世界大戦の開戦当初、ドイツ軍は順風満帆、まさに無敵だった。瞬く間に、ヨーロッパの大半を占領し、ドイツ機甲部隊は大西洋沿岸まで走り抜けた。気をよくしたヒトラーは、次に狙いをイギリスに定めた。まず、自慢の空軍で大打撃を与え、無敵の機甲部隊をイギリスに上陸させようというのである。

ところが、イギリスはしぶとかった。見通しが甘く、何ごとも希望的観測に頼るチェンバレンに代わり、鋼の意志を持つチャーチルが首相になっていたのだ。ドイツの宣伝相ゲッベルスでさえ、
「チャーチル、あの太っちょの皮肉屋。しかし、その有能さは認めざるをえない」
と評したほどである。この皮肉屋チャーチルが降伏寸前のイギリスを救ったのである。

ドイツ軍はイギリス本土上陸どころか、最初の空爆でつまづいてしまった。その理由はイギリス軍のレーダーシステム。新開発のレーダーでドイツ軍機を事前に探知し、戦闘機を待機させ、飛来したドイツ軍機を殲滅する。とはいえ、いくら事前に察知しても、空中戦で負けたら意味はない。ドイツ自慢の戦闘機メッサーシュミットはどうしたのだ?イギリスの戦闘機スピットファイヤーに手も足も出なかった?いや、そうではない。同じ条件なら、たぶんメッサーシュミットはスピットファイヤーに勝てたはずだ。ではなぜ、ドイツ空軍はイギリス空軍に敗北したのか?

ドイツ空軍のメッサーシュミットには時間がなかったのだ。メッサーシュミットは優れた戦闘機だが航続距離が短い。そのため、イギリス上空での戦闘はわずか数分に限られた。燃料を気にしながらのドッグファイトは非常なハンディを背負う。日本の撃墜王坂井三郎氏の証言である。こうして、メッサーシュミットが燃料切れで帰還した後、残されたドイツ軍爆撃機は次々と墜とされた。

せっかちなヒトラーは、イギリス本土上陸をあきらめ、矛先をロシアに向ける。こうして、1941年6月22日、バルバロッサ作戦が始動したのである。この作戦は、ドイツ軍300万人とロシア軍300万人が激突した歴史上最大の陸上戦となった。当初、ドイツ軍は、不意打ちと、戦車と航空機がたくみに連携する電撃戦により、圧倒的な勝利をおさめた。ところが、12月、冬のコーカサス山脈でドイツ軍の快進撃は止まる。想像を絶する酷寒の中、兵士、車両、武器、潤滑油にいたるまで、ドイツ軍のすべてが凍りついたのである。

■V2ロケット計画

1942年12月、イギリス科学情報部に、今度はデンマークの化学者から情報が持ち込まれた。ドイツ軍がバルト海沿岸でミサイル実験を行ったが、飛行距離が300kmにたっしたという。それまでの最長は、第一次世界大戦のパリ砲の130km。その2倍を超える。じつは、この「飛行距離300km」はさらに重要な意味を含んでいた。その頃、ドイツはフランス沿岸やベルギーを占領していたが、そこからロンドンまで300kmも離れていない。つまり、ロンドンはドイツ軍ミサイルの射程距離に入ったのである。

一方、この情報には不可解な点もあった。当時、ロケットは固体燃料で、このような長射程はありえなかった。ガセネタに違いない、イギリス科学情報部はそう結論づけた。ところが、その後も、同じような情報が次々ともたらされる。何かが起こっているのだ。イギリス軍はついに重い腰を上げた。

1943年春、イギリス軍偵察機は疑惑のペーネミュンデ村を偵察した。そして、6月に十字架の形をしたロケットらしきものを確認する。持ち込まれた情報は事実だったのだ。イギリス首相チャーチルはペーネミュンデを爆撃するヒドラ作戦を承認する。爆撃の目標はロケットではなく、ドイツ人技術者の居住区。技術者さえ抹殺すれば、計画が頓挫すると考えたのだ。1943年8月17日、600機ものイギリス空軍機がペーネミュンデを爆撃、2000トンもの爆弾と焼夷弾を投下した。ところが、技術者たちの犠牲はわずかで、爆撃は失敗に終わる。

一方、イギリス空軍のペーネミュンデ爆撃を知ったドイツ首脳部は驚愕した。V2ロケットの存在が露見したと確信したからである。1943年8月22日、親衛隊長官ヒムラーと軍需相シュペアは会談し、V2ロケットの施設を安全な場所に移すことにした。その結果、V2ロケットの開発はポーランドのブリズナに、生産はノルトハウゼンの地下工場に移されることになった。

この工場は、全長2kmのトンネルが2本もあり、各施設はトンネルを中心に配置された。工場建設には、近くのブッフェンヴァルト強制収容所の収容者が6万人も動員された。その大半はフランス人、ポーランド人、ロシア人の捕虜であった。工場内の作業は過酷を極め、第二次世界大戦が終わるまでに、労働者の1/3が病や飢餓で死亡したといわれる。

■液体燃料ロケット

歴史上偉大な発明は、無名の発明家がアイデアを思いつき、スポンサーを捜し、資金を得て、開発にこぎつけるというケースが多い。スポンサーのほとんどはお金持ちだが、中には国王というのもある。史上空前の巨砲、ウルバンの大砲の資金を出したのはオスマン帝国のメフメット2世である。じつは、V2ロケットもそれに近かった。

ドイツ国防軍は、第一次世界大戦の敗戦直後から、熱心に新兵器を模索していた。火砲のスペシャリスト、カール・ベッカー中佐はロケット兵器に注目した。火砲は砲身内部の爆発力で砲弾を打ち出すため、射程距離は限られる。一方、ロケットなら、自力推進できるので、長大な射程距離が可能になる。この頃、固体燃料ロケットはすでに存在したが、ベッカー中佐の関心は、新しい液体燃料ロケットに向けられた。液体燃料のほう飛行距離が伸びるからである。

固体燃料ロケットは、ロケット本体に詰め込まれた固形燃料を燃焼させ、燃焼ガスの反動で推力をえる。構造はロケット本体と固形燃料だけ。シンプルなので製造コストが安い。ところが、固形燃料の3/4は燃料を成形するための材料で、推進に寄与する成分はたったの1/4。これでは、効率が悪すぎる。また、固形燃料は一旦火が付いたら最後、燃焼をコントロールできない。いってみれば鉄砲玉。

一方、液体燃料ロケットは、その名のとおり、液体燃料を燃やして飛ぶ。推進原理は以下のとおり。
1.エンジンスタート
2.ターボポンプで、液体酸素とアルコールを燃焼室に送り込む。
3.燃焼室に点火し、燃料を燃焼させる。
4.燃焼ガスを後部から噴射し、その反動で推力をえる。
というわけで、液体酸素タンク、アルコールタンク、燃焼室を完全に分離する必要がある。固体燃料ロケットよりはるかに複雑である。もちろん、その分、手間もカネもかかる。

一方、メリットもある。固体燃料ロケットに比べ、燃料重量に対する推進力の効率が高いので、飛行距離はのびる。また、推力が大きい分、爆弾もたくさん積める。さらに、燃料供給を加減することで、燃焼を制御し、飛行をコントロールすることもできる。値は張るが、スペック的には固体燃料ロケットを凌駕する。ところが、一つ問題があった。10年先をいく超ハイテクが必要だったのである。

■フォン・ブラウン

ベッカー中佐は、軍人にありがちな民間人をさげすむ傲慢さはなかった。当時のドイツでは、ドイツ宇宙旅行協会が設立され、アマチュアロケット研究家たちがさかんにロケットを打ち上げていた。その中に、金髪の背の高い若者がいた。名をヴェルナー・フォン・ブラウンという。彼は、ベルリン工科大学の学生で、すでに液体燃料ロケットに精通していた。ベッカー中佐はフォン・ブラウンの才能を見抜き、この若者にロケット兵器の未来を賭けることにした。

ベッカーは、フォン・ブラウンに液体燃料ロケットの開発を依頼し、その見返りとして、軍の火砲実験場の提供を申し出たのである。ロケット開発に執念を燃やすフォン・ブラウンはすぐに申し出を受けた。以後、フォン・ブラウンはドイツのヒト・モノ・カネをふんだんに使い、V2ロケットを成功させるが、それが彼のキャリアを傷つけることにもなった。ナチスドイツに魂を売った技術者として。

こうして、液体燃料ロケット計画はスタートした。最初のロケットは「A-1」と命名されたが、総重量135kg、エンジン推力も300kgと、スペック的にはつつましいものだった。ここで、「A」は「Aggregat(総合体)」の頭文字である。以後、「A-1」、「A-2」、「A-3」と計画は着実に進んでいった。その成果を確認した陸軍は、1936年、「A-4」ミサイルの開発を決定する。そして、この「A-4」こそが、歴史上初の大陸間弾道ミサイル「V2ロケット」へとつながるのである。ちなみに、「V2ロケット」の「V」は「Vergeltungswaffe(報復兵器)」の頭文字で、いかにもヒトラー的である。

■ペーネミュンデ秘密基地

このV2ロケットの開発拠点となったのが、先のペーネミュンデ秘密基地だった。大戦が始まる前の1937年5月にはすでに建設されている。ペーネミュンデはさびれた村で、秘密を守るには都合がよかった。また、バルト海に面しているので海にロケットを試射することもできた。ロケット開発の基地にはうってつけだったのである。

ペーネミュンデ秘密基地の総責任者には、ベッカー中佐の部下で、ロケットの良き理解者ヴァルター・ドルンベルガー大尉が任じられた。技術部門の最高責任者はフォン・ブラウン。まだ、25歳という若さだった。国家プロジェクトのリーダーが25歳の青年というのもすごい。

じつは、歴史上初めて液体燃料ロケットを打ち上げたのは、フォン・ブラウンではない。アメリカのロケット研究者ロバート・ゴダードである。ゴダードは、1926年3月16日に最初の液体燃料ロケットの打ち上げている。ただ、このロケットの全長は1m、飛行距離も目に見える範囲で、スペック的にはオモチャの域だった。

一方、V2ロケットは弾頭を搭載し、200kmかなたの町を破壊できる。世界初の大陸間弾道ミサイルだった。責任者ドルンベルガーは、最終目標をペイロード1トン、射程距離270kmにおいた。ペイロードとはミサイルの弾頭(爆薬)のことである。もし、実現すれば、歴史上最大の火砲、パリ砲とくらべ、射程距離で2倍、ペイロードは100倍である。さらに、開発期間は6年で、1943年に実戦配備されることになった。この頃、ロケットの型番は「A-4」だったので、以後、「A-4ロケット」と呼ばれることになる。

第二次世界大戦前夜、誰も知らないさびれた寒村で、秘密基地が建設され、世界を変える超兵器の開発が始まった・・・ペーネミュンデ秘密基地は、子供の頃の「秘密基地ごっこ」の匂いがする。昭和40年代、「秘密基地ごっこ」は男の子の遊びの定番だった。「0011・ナポレオン・ソロ」、「タイムトンネル」、「サンダーバード」、人気のSFドラマに「秘密基地」は欠かせなかった。また、少年漫画ではハイテク満載の秘密基地が特集され、科学好きの少年をワクワクさせたものだった。ドイツの科学技術はハイテクなのだが、どこか少年のオモチャ箱の匂いがする。

ところが、V2ロケットには少年の夢の裏側に、非情な現実があった。V2ロケットの生産は過酷をきわめ、数千人を超える死者を出したのである。

《つづく》

参考文献:
手島尚訳スティーヴン・ザロガ著「V-2弾道ミサイル1942-1952」大日本絵画

by R.B

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