■玉砕と受難■
イエス キリスト最後の12時間を描いた映画『パッション』。おそらく、生身の人間が体験しうる究極の受難を描いている。ユダヤ教徒に捕えられたイエスは、恐ろしい責め具で、肉がめくれあがるほどムチ打たれる。しかも、その先に待っているのは『解放』ではなく、十字架刑、つまり『死』なのだ。命を脅かすほどの苦痛を強いられたあげく、最後には殺される。これ以上の受難はないだろう。
だが、イエスの場合、苦しみは12時間で終わった。だから、まだ、ましなのかもしれない、と思わせるほどの受難もある。『玉砕』。太平洋戦争中、日本軍が多用した戦術だ。いや、戦術というよりは、滅びの哲学と言ったほうがいいかもしれない。本来、玉砕の意味は「生き恥をさらすより、玉が美しく砕け散るごとく、いさぎよく死ぬこと」。戦争にあてはめば、『惨めな捕虜』よりも『美しい死』、視点をかえれば、国家による強制自殺ともいえる。このように、国家が人命に無関心な事実は、歴史年表のいたることころで証明されている。
だが、「人命は尊重すべきだ」などと声高にわめいてみたところで、現実の連鎖である歴史の前では無力だ。どんなに悪業に見えても、しかるべき理由は必ずある。
太平洋戦争における玉砕はバンザイ突撃とセットであった。アメリカ軍の圧倒的打撃力の前に、ひき肉のように引き裂かれ、最後に突撃、十字砲火を浴び、無惨な最期をとげる。これが玉砕であった。このような受難は、太平洋戦争末期、日本軍の日常だったが、今では想像することすら難しい。
死ぬこと以外に選択の余地がないとしたら、人間は何を考え、どう生きるのだろう。1945年2月19日、その答えの一つとなる歴史的な戦闘がはじまった。硫黄島を包囲した25万ものアメリカ軍が、一斉に攻撃を開始したのである。迎え撃つ日本軍は、わずか2万1000。日本兵が生き残る方法はたった1つ、1人で10人打ち倒すこと。このように玉砕しか解のない時空に、彼らは40日間も戦い抜いた。太平洋戦争の歴史上、最大の激戦とされる『硫黄島の戦い』である。
■硫黄島■
硫黄島の戦いを知る人は少ない、いや少なかった。太平洋戦争を生きた抜いた人か、物好きな戦記マニアぐらいだろう。ところが、2006年12月、クリント イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』が封切られるや否や、万人に知られるところとなった。硫黄島の戦いを日本側から描いたこと、ハリウッド映画であること、クリント イーストウッド、渡辺謙などのビッグネームが名を連ねたことが、その理由だろう。司馬遼太郎の『龍馬がゆく』が、無名の坂本龍馬を有名にしたのと同様、『硫黄島からの手紙』が、この戦いを有名にしたのだ。
硫黄島は、周囲22kmの小さな島である。現在、東京都小笠原村に属するが、東京から1220km南方に位置している。島民は住んでおらず、民間人の渡航も制限されている。自衛隊の基地があるだけだ。この島は、1779年、イギリスの有名なジェームズ クック探険隊によって発見され、世界に知られるところとなった。1891年には、日本の領土となっている。火山の島であり、黒色火薬の生成に不可欠な硫黄が多く採掘された。住民は、太平洋戦争が激化した1944年には強制疎開させられ、以後日本軍の軍事拠点となった。その後、硫黄島の戦いでアメリカに占領されたが、戦後1968年、日本に返還されている。
■アメリカが硫黄島を欲した理由■
太平洋戦争末期、アメリカ軍は犠牲を強いてでも硫黄島を占領すべきだ、と考えていた。日本に王手をかけるには、日本本土への空爆が必須であり、そのためには硫黄島にある飛行場が必要だったからだ。このあたりの事情を、詳しくみてみよう。
太平洋戦争末期、日本の敗北はすでに決定的だったが、まだ最終決戦が残されていた。日本本土への上陸作戦である。しかし、本土決戦では、アメリカ軍に多数の犠牲者が出ることが予想された。日本軍は降伏しない、徹底抗戦する。女性が竹ヤリの訓練をしていたほどである。母曰く、竹ヤリを念じて突き上げれば、B29だって撃ち落とせる、とさえ思ったという。恐ろしい訓練、恐ろしい覇気である。そのため、アメリカ軍は、日本本土上陸の前に、軍事力と民力を徹底的に破壊しておく必要があった。また、激しい空爆が功を奏すれば、日本が降伏してくれるかもしれない。つまり、日本本土への安定した空爆は、アメリカ軍にとって最重要課題だったのだ。問題はただ一つ、空軍基地である。
アメリカ軍は、硫黄島の戦いの前に、すでにマリアナ諸島を占領していた。1944年7月7日にサイパンが玉砕、同年8月3日にはテニアンが玉砕、そして、翌8月11日にはグアムが玉砕している。アメリカ軍は、これら占領地に空軍基地を設置、重爆撃機B29で、日本本土への空爆をもくろんだ。
ところが、サイパンから東京までの距離は2400km、往復すれば4800kmにもなる。B29の最大航続距離は9650kmもあるため、計算上は空爆可能範囲に入る。航続距離とは無給油で飛行できる距離のことである。しかし、B29が最大速度576/kmで飛行したとしても、往復に8時間もかかる。現実には、より低速で飛行せざるをえないし、爆撃する時間も必要だ。どう考えても、往復10時間はかかる。陸上での移動では一服することも可能だが、空中飛行ではそうはいかない。クルーの疲労も、当然大きくなる。さらに、これだけの距離をノンストップで飛ぶとなると、B29が故障で墜落する確率も高くなる。
また太平洋戦争における空爆では、護衛の戦闘機をつけるのが普通だった。爆撃機は鈍重で、速度も遅い。高速で小回りがきく戦闘機に遭遇すれば、その餌食となるには必定だ。この頃、アメリカ軍は戦闘機P-51ムスタングを戦場に送り込んでいた。P-51ムスタングはレシプロ戦闘機の最高傑作で、太平洋戦争のみならず、ヨーロッパ戦線にも投入されている。高速で、小回りがきき、強力な火砲をそなえる上、航続距離は3700kmにも達した。ドイツの主力戦闘機メッサーシュミットBf109の航続距離は560km、イギリスが生んだ名機スピットファイアは740km、その長大な航続距離で世界を震撼させた零戦21型の航続距離でさえ3350km。P-51ムスタングの航続距離が、いかに長大かがわかる。
だが、このP-51ムスタングの航続距離をもってしても、サイパン−東京の往復距離4800kmはクリアできない。日本本土を空爆するためには、なんとしても中継地点が必要だった。そして、その条件を満たしたのが硫黄島だったのである。硫黄島には3つも飛行場があり、硫黄島−東京の往復距離は、約2500km。B29はもちろん、P-51ムスタングの航続距離でも十分余裕がある。アメリカ軍が、硫黄島に執着した理由はここにある。
一方、硫黄島が奪われれば、日本全土は空爆域に入り、焦土と化す可能性があった。つまり、日本にとっては、硫黄島は本土を守る最後の防波堤であり、この地を失うことは、日本の破滅を意味していた。そして、この事実を、誰より理解していたのが、硫黄島防衛の司令官、栗林忠道 中将だった。
■恩賜の軍刀■
栗林忠道 中将は、陸軍大学を2番で卒業したいわゆる『恩賜の軍刀組』だった。恩賜の軍刀とは、天皇から授与される軍刀で、陸軍大学を優等で卒業した者だけに与えられた。彼らは、『軍刀組』とよばれ、陸軍の中でも特別のエリートコースを歩んだ。海外留学、海外派遣、戦略レベルの作戦立案、戦場では作戦参謀と、主に知的任務についた。
この時代、陸軍幼年学校→陸軍士官学校→陸軍大学のコースは、旧制高校→帝国大学をしのぐエリートコースであった。
太平洋戦争中、叔父が陸軍幼年学校に入学している。この叔父の証言によると、軍隊の教育の場では体罰は日常的だったが、幼年学校では、先輩が後輩を殴ることはなかったという。くってかかるときも、手を挙げず、胸を押しあてて挑んできたという。幼年学校に在籍する学生は、やがては、士官、将官となり、帝国陸軍の同じ支配階級へ組み込まれるからだ、と叔父は説明した。だが、叔父が入学してまもなく終戦をむかえ、将官への夢は消えうせた。ある時、叔父とこんな会話をしたことがある。
:「戦争があのまま続いていたら、今頃、閣下ですね」
叔父 :「ばかいえ。遠の昔に、中国あたりで死んでるよ」
:「本当ですか」
叔父 :「幼年学校、陸士出のエリートは、確かに優秀なんだが」
「潔いから、戦場に出ると、すぐ死ぬんだ」
「部下といっしょに、バンザイ突撃してね」
この叔父は、戦後、田舎に帰り、九谷焼の老舗に養子に入ったが、いつも、場違いな聡明さで目立っていた。死の2日前、見舞いに行くと、モルヒネによる意識混濁の中で、英語でスピーチをしていた。九谷焼のおやじがどこで覚えたのか知らないが、見事な英語だった。さすが、帝国軍人、本物の秀才は死ぬまで秀才なんだ、ぼんやりと思った。自分が尊敬する人物で、小さい頃からかわいがってもらい、死の直前まで毅然とした生き様を目の当たりにし、最後の握手の瞬間に、悲しみがこみ上げた。
このような人生は、戦後、決して珍しいことはなかった。叔父と同じ村に、もう一人神童がいた。この人物は、陸軍幼年学校を主席で卒業し、恩賜の時計を授与されている。この時は、ちょうちん行列で、村をあげて祝ったという。彼もまた、終戦とともに、将官の夢を断たれ、小さな町工場を継ぎ、倒産寸前でこの世を去った。行く末は閣下が、田舎工場のおやじで人生を終える、これも敗戦が生んだ逆転の人生である。
■硫黄島の犠牲者■
栗林忠道 中将は、恩賜の軍刀組にふさわしく、若い頃、アメリカとカナダに派遣されている。そして、同じ海外派遣組の山本五十六海軍大将同様、アメリカとの戦争に否定的になった。日本とアメリカでは、国力が一桁も二桁も違う、その事実を思い知ったからだろう。
栗林中将は、1944年5月に小笠原諸島全域を管轄する第109師団の師団長に任命されている。当初、硫黄島の北方270kmに位置する父島に司令部をおく予定だったが、栗林中将は、硫黄島を司令部とし、自らも硫黄島に赴任した。アメリカ軍が上陸するのは、間違いなく3つの飛行場をもつ硫黄島であり、主戦場に身を置くのが最高指揮官と考えたに違いない。その後の歴史をみても、栗林中将は、最後まで硫黄島を離れることはなかった。
栗林中将は、太平洋戦争で戦ったアメリカの指揮官たちから称賛された希な軍人である。その理由は、たぶん、硫黄島での戦果にある。硫黄島に上陸したアメリカ軍は、6万1000名で、死傷者数は2万8686名。一方、日本守備隊の総数は2万1000名。ということは、日本守備隊が全滅しても、死傷者数で、アメリカ軍が日本軍を上回ることになる。硫黄島の戦いは、太平洋戦争中、アメリカ軍の死傷者数が日本軍を上回った唯一の戦いであり、まれにみる大激戦だったのだ。
一方、死者数に限れば、日本軍のほうが圧倒的に多い。硫黄島での戦いで、日本軍の死者数は1万9900名で、捕虜は1033名。つまり、戦闘に参加した日本兵の95%が戦死したことになる。それに、負傷者の数がゼロに近い。なぜか?最後のバンザイ突撃では、重傷者は殺され、軽傷者には自決用の手榴弾が渡され、走れる者すべてがバンザイ突撃を敢行したからである。負傷者も元気な者も、すべて残らず死ぬ。これが『玉砕』なのだ。
一方、アメリカ軍は、死傷者2万8686名のうち、戦死者は6821名。死者数は、日本軍の1/3に過ぎない。つまり、戦死者数という点では、日本はアメリカに完敗である。アメリカは民主主義を標榜する国家だ。たとえ軍隊といえども、人の命をないがしろにはしない。負傷者に自害させるなど論外だ。たとえば、1945年4月に行われた沖縄戦では、アメリカ軍は、1万トン級の医療船を6隻も海上に浮かべ、負傷者の命を救っている。むろん、この違いはイデオロギーのみならず、物量にもよっている。
■硫黄島のアメリカ軍■
硫黄島攻略のアメリカ軍の最高司令官は、レイモンド A スプルーアンス大将だった。1942年6月5日、ミッドウェー海戦で日本の空母部隊を壊滅させた提督だ。また、遠征軍の総指揮官はリッチモンド K ターナー大将、硫黄島派遣部隊の総指揮官はホーランド M スミス中将が任命された。この派遣軍の規模は、2万1000人が守る小さな硫黄島を攻めるには、どうみても過剰だった。先のターナー大将率いる部隊だけで、戦艦4隻、空母12隻、巡洋艦19隻、駆逐艦44隻、輸送船43隻…すべて合わせると、艦船数800隻、上陸部隊は11万、海上兵も含めると総数25万人にもなる。この大兵力で、艦船ゼロ、総兵数2万1000名の日本軍をたたこうというのだ。恐ろしいほどの兵力差。このような途方もない艦隊に包囲され、それがただ、自分たちを破滅させるためにいるのだと知ったとき、日本兵はどんな思いにかられたのだろう。
アメリカ軍は、この圧倒的兵力により、短期決着をもくろんでいた。硫黄島を5日で陥落させる、それまでに日本軍と戦った戦果をふまえ、そう信じて疑わなかった。だが、この予想は完全にくつがえされることになる。実は、硫黄島の日本軍には秘密があった。優秀な司令官、秘密の防衛システム、強力な火力の3つである。だが、アメリカ海兵隊員たちは、何も知らされないまま、『硫黄島の死闘』へと、送り込まれていった。
《つづく》
参考文献:池田清 編 太平洋戦争研究会 著 【図説】太平洋戦争 河出書房新社
:別冊歴史読本 硫黄島の戦い 新人物往来社
by R.B |