ガイアチャンネル ロゴ
ベネディクト・ロゴ
 

 週刊スモールトーク (第92話) 奴隷市場と奴隷貿易 V 〜奴隷制度の光と影〜

奴隷市場と奴隷貿易 V 〜奴隷制度の光と影〜

■奴隷制プランテーション■
 奴隷制度には3つのタイプがあるが、いずれも、人間の素性と歴史に暗い影を落としている。奴隷を売り買いする奴隷市場、奴隷を運ぶ奴隷貿易、奴隷を正当化する奴隷制度、この3つは近世に入って融合しシステム化された。中でも、黒人の奴隷市場と奴隷貿易は歴史上最も有名で、15世紀末から19世紀末にかけて、利益で他の貿易を圧倒した。この間、西アフリカとアメリカを結ぶ奴隷貿易で、1000万人以上の黒人奴隷がアメリカに運ばれ、そのすべてを、アメリカ南部の奴隷制プランテーションがのみこんだ。奴隷制プランテーションとは、安価な奴隷を使い、単一作物を栽培する大規模農園のことである。

 16世紀、アメリカ南部の奴隷制プランテーションは、タバコ栽培から始まった。ところが、タバコは価格が不安定で、投機性が高い。タバコ栽培に嫌気がさしたプランターたち(プランテーションのオーナー)は、作物をタバコから綿花にかえた。イギリスの綿花需要に目をつけたのである。産業革命で工場の機械化に成功したイギリスは、綿布と綿織物で世界最大の生産量を誇ったが、その材料の綿花を大量に必要としたのである。この2国の需要と供給はうまくかみあい、1800年代初頭には、イギリスで消費される綿花の80%を、アメリカ南部のプランテーションが供給するまでになった。この時代、アメリカ南部の経済をささえたのは綿花だったのである。

 こうして、アメリカ南部の大プランターたちは、綿花栽培で巨万の富を築いた。その優雅で贅沢な暮らしぶりは、映画『風と共に去りぬ』でも見ることができる。この映画は、主人公スカーレット オハラの人生を通して、アメリカ南部の大プランターの光と影を描いたものである。つまり、南北戦争以前の栄華と、その後の没落。
 アメリカ南部の綿花栽培が、このような成功を収めた理由は2つあった。アメリカ南部の気候や土壌が綿花栽培に適していたこと。さらに、奴隷貿易とリンクした巨大な奴隷市場が形成されたことである。綿花栽培は、典型的な労働集約型産業であり、安価な労働力が不可欠だったのである。

■アメリカ南部の黒人奴隷■
 一方、アメリカ南部の奴隷制度には、他に類を見ない特徴があった。プランターが奴隷を家族丸ごと囲った点である。奴隷を家族で所有すれば、奴隷が老いてもその子が新たな奴隷となり、次に孫へと受け継がれていく。つまり、奴隷を再生産できる。奴隷が死ぬたびに、奴隷市場で新たな奴隷を購入する手間がはぶけたのだ。
 奴隷の家族が住む居住区は、プランテーションの一画にもうけられた。そこは、互いに見知らぬ奴隷たちが寝泊まりする味気ないキャンプではなかった。家族がともに暮らす家であり、『人としての暮らし』があった。この奴隷の家族が集まって、さらに大きなコミュニティが形成され、やがて独自の文化も生れた。黒人の嘆きの音楽『ブルース』もその一つである。

 一方、黒人奴隷の中には、少数ながら自由を得る者もいた。ところが、その自由も長くは続かなかった。奴隷商人が解放された黒人の一家を襲い、再び奴隷として売り飛ばしたのである。苦心惨憺、勝ち得た自由の身から、再び奴隷の身へ。これ以上の、落胆、苦しみ、悲劇はあるだろうか。まるで、ギリシャ神話に登場する『シシュポスの呪い』だ。

 神ゼウスの怒りに触れたシシュポスは、罰としてある労働を課せられる。大きな石を山のふもとから山頂まで運ぶだけなのだが、恐ろしい仕掛けが隠されていた。シシュポスが石を山頂まで運んだ瞬間、石は元の場所まで転がり落ちる。そこで、もう一度、山頂まで石を運ぶが、また石は転がり落ちる。この気が狂うほどの無意味な繰り返しを、世界が終わる日まで続けるのだ。『シシュポスの呪い』恐るべし。

■サマセット事件■
 18世紀後半、イギリスで、奴隷制度にからむ歴史的な事件が起こった。サマセット事件である。1765年、グランヴィル シャープなる人物が、通りがかりに、路上に捨てられた一人の黒人奴隷を見つける。この奴隷は、名をジョナサン ストロングといった。シャープに助けられたストロングは、自由の身となり職を得るが、ある日、元主人のデビッド ライルに発見される。ライルは、ストロングをつかまえ、奴隷市場に売り飛ばそうとした。それを知ったシャープは、 ライルをジョナサンに対する暴行の罪で訴える。一方、ライルは、他人の財産を奪った罪で、逆にシャープを訴えた。

 この裁判は、厄介な問題をかかえていた。人権と財産権の問題である。人権思想が浸透しつつあったイギリスでは、奴隷を解放すべきだという主張と、それを認めれば、所有者から財産(奴隷)を奪うことになるという主張があった。一見、難しい問題にみえるが、論点ははっきりしている。奴隷を人と認めれば人権側が、奴隷を物とみれば財産権側が正しい。当初、シャープが圧倒的に不利と思われたが、1772年にシャープが勝訴する。たとえ、奴隷であっても、
「イギリスの地に一歩でも踏み入れれば、自由人となる」
画期的な判決だった。この判決により、イギリスでは多数の奴隷が解放されたが、逆に保護者を失うことになり、奴隷の生活はより悲惨なものとなった。

■ヨーロッパの奴隷解放■
 19世紀に入り、産業革命が本格化すると、奴隷制度への非難が一挙に高まった。結果、イギリスでは1807年、フランスでは1817年、スペインでは1820年に、それぞれ奴隷貿易が廃止された。ところで、産業革命が奴隷貿易を廃止に追いこんだ理由は何か?奴隷商人たちが悔い改めたのではなく、原因はあいかわらずマネーにあった。

 産業革命により、人類は、歴史上初めて、自然に頼らない人工動力を得た。蒸気機関である。この巨大な力を用いた工場制機械工業により、物づくりの生産性は飛躍的に向上した。結果、生産は過剰となり、製品があふれかえった。数の少ない富裕層を相手にしていたのでは、製品はさばけない。あらたな顧客が必要だった。そのターゲットにされたのが、貧しい労働者階級であった。資本家たちは、労働者に物を買わせるために、賃金労働者として雇用し、賃金を払い、その賃金で商品を買わせようとしたのである。結果、『労働力=奴隷』 から 『労働力=賃金労働者』へと歴史的な大転換が起こった。これが、産業革命が、奴隷制度を廃止に追い込んだ理由である。

■アメリカの奴隷解放■
  ヨーロッパでの奴隷制度の廃止は、やがてアメリカにも波及した。1840年、アメリカでも産業革命が始まり、北部では、次々と工場が建設され、巨大な工業地帯が形成されていった。新しい時代のページが、めくられようとしていたのである。こうした息吹を感じとった北部の商工業者たちは、先進的な思想と自由な気風を好んだ。
 一方、アメリカ南部では、あいかわらず奴隷を酷使する綿花栽培が中心で、大プランターがすべてを支配する王国であった。このような南部の制度や文化は、北部の人々にとって、嫌悪すべき対象にしか映らなかった。そもそも、アメリカ憲法には、万民平等の思想があり、奴隷の犠牲の上に、王侯貴族のような生活をおくる大プランターたちは、悪に見えたのである。

 北部と南部の対立は、日を追うごとにエスカレートしていった。奴隷制だけではなく、貿易政策でも対立したのである。南部はイギリスに綿花を輸出していたので、イギリスが標榜する自由貿易に同調する立場にあった。一方、北部が目指したのは工業立国で、そのためには、ヨーロッパ諸国に打ち勝つ必要があった。ところが、当時のアメリカは工業後進国で、自由貿易を認めれば、ヨーロッパのライバルたちに粉砕される可能性があった。つまり、北部は保護貿易を望んでいたのである。

 こうした対立は、やがて、アメリカの歴史上最悪の内戦にまで発展する。1861年に始まった南北戦争である。最終的には、工業力で優る北軍が勝利したが、リー将軍に率いられた南軍は強く、終息するまでに5年の年月を要した。南北戦争が終わった後、『奴隷解放宣言』により、南部の黒人奴隷たちは解放された。ところが、南部にしみついた黒人に対する差別や偏見は簡単には消えなかった。その象徴が、南北戦争直後、テネシー州で創設されたKKK(クー クラックス クラン)である。KKK はアメリカの白人至上主義団体で、白人支配の復活をめざし、黒人や黒人に好意的な白人を襲い、リンチをくわえたのである。

■イスラム世界の奴隷■
 このように、ヨーロッパ人たちが、アフリカと南北アメリカで形成した奴隷市場は、悲惨をきわめたが、歴史上、そうでない奴隷制度もあった。その一つが、イスラム世界の奴隷制度である。イスラム教の経典コーランには、
奴隷を親切に扱うべきである
と説かれているという。つまり、初めから奴隷を肯定しているわけで、一見、ヨーロッパより、深刻に見える。ところが、イスラム世界の奴隷は、ヨーロッパ世界よりずっと恵まれていたらしい?

 先ず、イスラム世界では、ヨーロッパ世界のように、だれかれ捕まえて、勝手に奴隷にすることはできなかった。イスラムにはイスラム法があり、キリスト教とは比較にならないほど規則が厳しい。イスラム法によれば、奴隷にできるのは、生まれつきの奴隷か、異教徒の戦争捕虜に限られていた。ここで、生まれつきの奴隷とは、母親が奴隷身分の子である。ところが、もし父親が自由人で、その子を認知すれば、その子は奴隷身分から解放されたという。奴隷制度を認めた上で、奴隷の苦しみを最小限に食い止めようとする善意が感じとれる。

 一方、イスラム世界でも、奴隷はやはり物あつかいであった。つまり、売買、相続、贈与の対象となったのである。とはいえ、ヨーロッパ世界とは異なり、さまざまな制限がもうけられた。例えば、7歳未満の奴隷の場合、母親から離して売ることは禁止された。さらに興味深いのは、奴隷は刑罰も自由人の半分だったことである。奴隷は権利も半分なら、罪も半分?確かに筋は通っている。

 イスラム世界の奴隷が恵まれていた証拠はまだある。なんと、奴隷に子供の教育を任せることもあったらしい。教育は、教えること、育(はぐく)むことの二面をもつ。知力のみならず、高い人格まで求められ、ましてや、自分の子供である。この事実から、イスラム世界では、身分よりも、能力や人格が優先されたことがうかがえる。イスラム世界では、奴隷に対する偏見や差別は、かなり希薄だったのではないだろうか?黒人の幼児がペットとして扱われたヨーロッパ社会とは、大きな違いがある。
 さらに、イスラムの教えでは、 奴隷に教育をほどこし、奴隷身分から解放することは、天国への近道とされたという。奴隷に対する意識の中に、ヨーロッパ世界では悪意が、イスラム世界では善意が感じられる。むろん、単純な二元論にすぎないが。

■モンゴルを討ち破った奴隷■
 1255年、モンゴル帝国は、再びヨーロッパへの侵略を開始した。歴史に名高いモンゴル帝国3回目のヨーロッパ遠征である。無敵のモンゴル軍は、前回同様、快進撃をつづけ、ヨーロッパとアジアの間に位置するイスラム世界は崩壊寸前に追い込まれた。ところが、1260年9月3日、アイン ジャルートの戦いで、モンゴル軍は思わぬ敗北を喫する。エジプトのイスラム国マムルーク朝が、将軍ケド ブカ率いるモンゴル軍を壊滅させたのである。イスラム世界は歓喜に包まれた。局地戦とはいえ、無敵のモンゴル軍に勝利したのである。

 この歴史的勝利を得たマムルーク朝は、実は奴隷が建国した王朝であった。マムルーク朝は、13世紀から16世紀に栄えたイスラム王朝で、カイロに都をおき、エジプトからシリアまで支配した。マムルークとは『アラブの白人奴隷兵』をさすが、彼らが創設した王朝なので、こうよばれた。

 マムルークは奴隷兵とはいえ、イスラムの最高指導者スルタンの親衛隊、つまり、エリート戦士であった。彼らは騎馬民族の出身で、生まれながらにして、馬を巧みに操ることができた。幼少時に奴隷として買われ、さまざまな戦闘訓練をしこまれた戦闘のプロフェッショナルである。一方、マムルークはスルタンの私兵であったため、宮廷内でも勢力を伸ばし、実質上の支配者にまで登りつめたのである。1453年、ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国の奴隷兵イェニチェリも、マムルークと似た性格をもつ。

■女性スルタン■
 興味深いことに、マムルーク朝の初代スルタンはなんと女性であった。エジプトを支配したイスラム王朝の中でも、女性スルタンはこのシャジャル アッドゥッルのみ。とはいえ、ジャンヌダルクのように自力でその地位を勝ちとったわけではない。そもそも、アッドゥッルは宮廷奴隷の出身で、勇ましい軍歴とは無縁である。
 実は、アッドゥッルの夫はマムルーク朝の前王朝アイユーブ朝のスルタン サーリフ、つまり、彼女は王の妻だったのである。夫サーリフが死に、後継者争いが起ったとき、マムルーク軍団長バフリーヤはアッドゥッルを担ぎ上げ、マムルーク朝を創設したのである。まさに、歴史上最大の『棚からぼたもち』?

 マムルークは、白人の奴隷兵だったが、エジプトのイスラム王朝には、黒人の奴隷兵もいた。彼らは、『アビード』と呼ばれ、10世紀から11世紀のファーティマ朝では、マムルークをしのぐ勢いとなった。ところが、不出の英雄サラディン(サラーフ アッディーン)によって、その力は完全に断たれた。
  サラディンは、十字軍と戦ったイスラムの指導者で、イスラム歴史上最も有名な人物である。戦いに勝利した後、キリスト教徒にも慈悲を示したことで、キリスト教世界でも根強いファンを生んだ。軍事と政治両面に長け、高い知性と教養を備えたイスラム世界屈指の指導者である。

■チェルケス娘■
 イスラム世界で有名な奴隷は、マムルーク、イェニチェリのような兵士だけではない。『チェルケス娘』。この意味深なキーワードは、インターネットの検索エンジンを駆使しても、なかなかヒットしない。
 チェルケス人は、カフカス地方一帯に暮らす遊牧民族で、他国からの侵略や圧政に屈しない勇敢な民族として知られた。と同時に、古くから奴隷兵を出すことでも知られていた。特に、1382年から1517年の後期ブルジー マムルーク朝を支配したのは、チェルケス人のマムルークであった。さらに、チェルケス人には兵士とは別の奴隷もいた。チェルケス娘…彼女たちは、美しく魅力的なため、小さい頃から家事の奴隷として好まれたのである。

 このように、歴史に登場する奴隷は多様である。奴隷を辞書的に表現すれば、
「牛馬のように売り買いされる人間で、人の所有物」
と、身もふたもない。だが、奴隷制度の歴史を知れば知るほど、奴隷制度の二つの面、つまり、光と影が見えてくる。王朝創設にかかわるような陽の当たる場所と、人間の闇を証明する影の部分である。

 人間の潜在意識には、格差を好む性質がある。奴隷のような隷属的な境遇に反発し、革命を起こした人物が、事が成就すると一転、他人を隷属させた例は歴史上枚挙にいとまがない。また現代の『お受験』を見れば、平凡な主婦の中にも、格差を望む人間の本性が見える。奴隷を生む格差意識や差別意識は、人間の普遍的性質なのだろう。この魔性を抑えることができるのは、人間が持つもう一つの特質、知性と善意なのかもしれない。

参考文献:朝日百科 世界の歴史 89 朝日新聞社

by R.B


ベネディクト/地球歴史館 トップ週刊スモールトーク/地球と歴史の世間話 トップ