■マリー アントワネット■
1783年のある日、パリに時計工房をもつアブラアン ルイ ブレゲのもとに、前代未聞の注文が舞い込んだ。依頼主は、フランス王妃 マリー アントワネット。提示された条件は『金に糸目をつけない最高の懐中時計』であった。
マリー アントワネットの歴史上の名声は、華麗さと悲劇の両面にある。ヨーロッパ世界を代表する大名家ハプスブルク家の出身で、フランス国王ルイ16世の王妃という光の部分、ギロチンによる斬首刑という闇の部分である。1780年代、フランス民衆が貧困と飢えに苦しみ「パンをよこせ」と訴えたのに対し、マリー アントワネットが
「パンがなければ、お菓子を食べればいいのに」
と発言、それがフランス革命につながった、という歴史的エピソードもある。ブラックジョークともとれるが、食うや食わずの状況では、冗談ではすまされない。それが真実かどうかは別として、マリー アントワネットがフランス国民から嫌われていたことは確かである。
マリー アントワネットは、歴史に名高いフランス革命では、無数の非難を浴びたが、そのほとんどが誹謗中傷だったと言われている。その結末がギロチンによる斬首刑、なんという不運…それを象徴するような事件も起こっている。1785年に起こった『首飾り事件』だ。ジャンヌ ド ラ モットなる伯爵夫人が、マリー アントワネットの名を語り、王室御用達の宝石商から首飾りをだました取ったのである。マリー アントワネットはむしろ被害者だったが、この事件での彼女の言動が、国民に取り返しのつかない嫌悪感を抱かせてしまった。この事件こそが、フランス革命の直接の引き金になったという説まである。彼女のどこをみても、こんな歴史的大罪に見合う言動はないのだが。1793年10月16日、マリー アントワネットは罪の自覚がないまま、断頭台の露と消えた。
■天才時計師ブレゲ■
この歴史上比類なき名声をもつマリー アントワネットが発注した相手こそ、時計師アブラアン ルイ ブレゲであった。スポンサーは、世界の頂点を極めたフランス王室で、オーナーはマリーアントワネット。くわえて、製作者は機械式時計の歴史を変えたといわれる天才ブレゲ。これらの事実が、この時計を歴史上至高のアイテムにまで押し上げた。『ブレゲ NO.160』、後に『マリー アントワネットの懐中時計』と呼ばれる機械式時計の至宝である。
スイス生まれのアブラアン ルイ ブレゲは、時計の歴史を200年早めたといわれる天才時計師だ。パリで時計工房を開業し、フランス王侯貴族たちを顧客に名声を得ていた。ブレゲは、超がつくほど複雑な技術を駆使することで知られたが、『ブレゲ NO.160』には、そのすべてが組み込まれた。
以下、その仕様
1.パーペチュアルカレンダー(永久カレンダー)
2.ミニッツリピーター (時刻を音で知らせる)
3.トゥールビヨン (時計の姿勢による重力の影響を補正する)
4.スプリットセコンド (独立した2系統のストップウオッチ)
5.パワーリザーブ表示 (ぜんまいの巻き量を表示する)
6.均時差表示 (1日の時間のばらつきを表示する)
7.自動巻き (ブレゲ独自の自動巻き)
8.軸受けはサファイア (軸受けは摩擦と摩耗が激しいため)
9.文字盤は透明クリスタル (時計内部の機械の動きを楽しめる)
10.ケースはゴールド
中でも、1.〜4.は、『時計の4大機構』と呼ばれる機械式時計の超複雑技術である。これと同じ時計を、現在の『ブレゲ社』が復元すれば、2000 万円はくだらないだろう。だいたい、今売られているブレゲの時計でも、普通に1000万円はする。ブレゲは、時計の世界における天上ブランドなのだ。このようなとてつもない金額がつく理由は、これら複雑な機能をすべて機械で実現している点にある。むろん、歴史の重みやブレゲのカリスマも大きいが。そこで、これら超複雑と呼ばれる機構を詳しくみてみよう。
■パーペチュアルカレンダー■
Perpetual Calender。パーペチュアルカレンダーとは『永久カレンダー』のことである。その歴史は意外に古く、200年前、ブレゲはこの技術をすでに実用レベルで組み込んでいる。パーペチュアルカレンダーは、大の月(31日の月)、小の月(30日の月)、2月(うるう年を含む)を自動補正する機構だ。コンピュータを組み込んだデジタルウオッチならいとも簡単だが、歯車でやるのは大変だ。大の月と小の月を区別するには、月ごとの歯車が必要になり、それぞれの歯車は1年に1度だけ動作することになる。ところが、もっとややこしい問題もある。うるう年だ。
暦の上では、4年に一度うるう年となるが、これを自動補正するには、4年に一度だけ動く歯車が必要になる。あんな小さなケースに、こんな複雑な機構をどうやって詰め込むのだろう?実際、超がつくほど複雑らしく、数十万円クラスの機械式時計でも、この機構を備えないものが多い。ところが、うるう年は、4年の一度の補正では不十分だ。4年に一度うるう年となるが、100年に一度は平年、さらに、400年に一度はうるう年となる。ややこしいが、つぎの手順をふめば簡単に判別できる。
1.400で割り切れれば、無条件に「うるう年」
2.400で割り切れないが、100で割り切れれば「平年」
3.上記以外で、4で割り切れれば「うるう年」、それ以外は「平年」
ところが、100年に一度、400年に一度だけ動く歯車というのは、想像を絶する。そのためか、クォーツ時計も含めて、パーぺチュアルカレンダーと言えば、100年までの自動補正を意味している。つまり、2100年、2200年、2300年は、手動で平年に設定しなければならない。ただし、2400年はうるう年になるので、設定は不要だ。それまで生きていればの話だが…
ここまでくると、時を刻むというよりは、歴史を刻むというほうがあたっている。
100年に一度は手動設定が必要とはいえ、恐るべき技術である。機械式時計は、その機構において巨大なダイナミックレンジ(最大値と最小値)を有する。つまり、1秒を刻む歯車に加え、4年に一度動く歯車までそなえているのだ。こんな長大な幅をもつ時間連続体を機械式ムーブメントだけで実現するというのは、驚異としか思えない。
■ミニッツリピーター■
Minute repeater。ミニッツリピーターは、 ボタンを押すことで、現在の時刻を音で知らせる機構だ。パーぺチュアルカレンダー同様、歴史は古い。この機構の複雑ぶりは、先のパーぺチュアルカレンダーのさらに上をいく。具体的には、1時間を表す音色、15分を表す音色、1分を表す音色を組み合わせて、表現する。たとえば、1時間音色が1回、15分音色が2回、1分音色が3回鳴ると、
1時間×1回+15分×2回+1分×3回=1時間+30分+3分=1時33分
となる。
こんな複雑な機構を、バネと歯車でどうやって作るのだろう?さらに、機械音を出すには、ハンマーとゴングが必要だが、あんな小さなケースのどこに詰め込まれているのだ?信じがたい技術である。周囲に時計マニアが何人かいるが、ミニッツリピータ付きの時計のオーナーは、さすがにいない。カタログを見ても、ミニッツリピータ付きなら、軽く1000万円。一度でいいから、1000万円の音色を聞いてみたいものだ。
■トゥールビヨン■
Tourbillon。ブレゲを『天上の時計ブランド』』までおしあげた歴史的な超複雑機構だ。機械式時計の動力源は、ヒゲゼンマイである。ヒゲゼンマイとは、弾力性のある細長い金属ヒモを、渦巻状に巻いたもので、テンプという丸い円輪で固定されている。機械式時計の動きは、ヒゲゼンマイの均一な伸び縮みで、テンプが規則正しい往復回転をすることから始まる。それをガンギ車(歯車)とアンクル(フックのようなもの)からなる脱進機が受け止め、規則正しい歯車の回転を生む。つまり、『テンプ(ヒゲゼンマイ)』と『脱進機』のコラボレーションが、機械式時計のエンジンといえる。
ところが、ヒゲゼンマイの構造は、3次元空間の3軸(X,Y,Z)に対して対称でないため、姿勢によって重力の影響が異なる。姿勢が変わると、重力の影響で、ヒゲゼンマイの伸縮力が均一ではなくなるのだ。つまり、姿勢によって時計に誤差が生じることになる。これを補正するのが『トゥールビヨン』だ。ブレゲはこの機構を、1795 年頃に発明し、1801 年に特許を取っている。仕組みは、まさにコロンブスの卵。機械式時計のエンジンである『テンプ(ヒゲゼンマイ)』と『脱進機』一式を、常時回転させることにより、姿勢の差を相殺する。ため息がでるほど、鮮烈なアイデアだ。トゥールビヨンは、機械式時計における歴史的な発明といわれるが、納得がいく。
ところが、言うは易し、行うは難し。時を刻む歯車を回転させながら、その中枢機構まで回転させるのは、恐ろしい大技である。しかも、許されたスペースは、直径4〜5センチ、厚さ1.5〜2センチ。最高難度の技術らしく、現在でも、製作できる時計師は、世界で10〜20人と言われる。まさに、天才だけが生み出せる超技術なのだ。歴史の重み、ブレゲのオリジナル、至難の技術、1000万円出しても買う人の気持ちが、分からないでもない。
■スプリットセコンド■
懐中時計や腕時計で、ストップウオッチ機能を備えたものを『クロノグラフ』という。現在、機械式時計の世界では、ブライトリング(Breitling)が有名だ。ほぼ全機種が、クロノグラフとなっている。航空機のコックピットを思わせる風貌で、ゴツゴツしているのに妙な色気がある。機械式時計のブランドとしては歴史は新しいが、他社とは違う路線で、根強い人気を誇る。また、ブレゲとまではいかないが、普及価格帯が高いのも特徴だ。クロノグラフであれば、安いものでも50万円はする。
このクロノグラフの中で、2つの独立したストップウオッチ機能を備えたものが『スプリットセコンド』だ。秒針が2本あって、それぞれ独立に、時間を計測することができる。たとえば、2人のランナーのタイム、あるいは、ラップタイムを一度に測れる。
以上が、『時計の4大機構』と呼ばれる機械式時計の超複雑機構だ。歴史は古いが、現在でもその価値は変わらない。この4大機構のうち、2つ以上を備える時計は『グランドコンプリケーション』と呼ばれ、時計マニアにとっては、垂涎(すいぜん)ものだ。ただし、軽く、1000万円はいく。高級車の延長と考えれば納得できないこともないが、サイズと部品数を考えると、割が合わない。それにしても、ブレゲの逸品『マリー アントワネット』には、『時計の4大機構』すべてが組み込まれていたというが、ただ驚くばかりだ。
■パワーリザーブ表示■
パワーリザーブ表示とは、機械式時計のゼンマイの巻き量を表示する機構だ。たとえば、一度ゼンマイを巻き上げれば、一定時間動作するが、現在、何時間分巻かれているかを針で表示する。機械式時計、特に、手巻きの場合、1回のチャージで動作する時間が短いので、便利な機能である。
■均時差表示■
均時差表示とは、1日の時間の誤差を表示する機能である。1日の長さは24時間ではなく、年間を通して、23時間44分(11月3日)〜24時間14分(2月12日)とばらつく。このばらつきの理由は、大きく2つある。第一に、地球は太陽を中心に公転しているが、地球の自転軸が公転面に対して23度傾いていること。第二に、公転軌道が楕円で、ケプラーの第2法則により、太陽と地球を結ぶ線分が単位時間に通過する面積は一定。つまり、地球は、太陽に近いところでは速く、太陽から遠いところでは遅くなる。このばらつき具合、つまり、年平均時間(24時間)との誤差を表示するのが均時差表示である。もちろん、日常生活ではほとんど意味がない。そんな機能を、限られたスペースにあえて組み込むブレゲは、天才としか思えない。
■ブレゲ NO.160 その後■
このような驚異の複雑機構を備えた『ブレゲ NO.160』は、1827年、44年の歳月を経て完成する。注文を受けたブレゲ自身は、その4年前に死んでおり、完成させたのはその弟子であった。また、注文主のマリー アントワネットも、はるか30年前、フランス革命で断頭台の露と消えていた。その後、『ブレゲ NO.160』は歴史の記録から消えるが、20 世紀初頭、デヴィット ライオネル サロモンズなる人物がこの時計を所有、彼の死後、イスラエルの記念館に寄贈された。ところが、1983年、何者かによって盗み出され、行方不明となる。そして、2007年11月11日、イスラエルの日刊紙ハーレツによると、ブレゲ NO.160がついに発見されたという。
『ブレゲ NO.160』は、18世紀、世界の頂点を極めた大国の富と、不世出の天才によって生みだされた歴史上無双の逸品である。しかも、マリー アントワネットが幻のオーナー。オークションにでもかけられれば、10億はくだらないだろう。かつて、ゴッホの『ひまわり』が58億円で落札されたことを考えれば、70億、100億?むろん、単位はウォンはなく、円だ。
■機械式時計はなぜ売れるか?■
最近、腕時計をする人が少なくなった。携帯電話で事足りるからだろう。その一方で、機械式時計が静かなブームとなっている。時計マニアの知人は、機械式の懐中時計を持ち歩いているが、いちいちポケットから取り出す必要があり、いかにも不便そうだ。もちろん、一介のサラリーマンが、20万円も出して不自由な懐中時計を買うには、それなりの理由がある。歯車が刻むホンモノの時間を堪能するためだ。そして彼の究極の夢は、
「いつかはブレゲ」
長い時計の歴史の中で、時計の価値は変わりつつある。
2005年、時計世界の至高ブランド、ヴァシュロン・コンスタンタン社が創業250周年を記念して機械式時計を発表した。名は『トゥール ド リル』。製作されたのは全部で8本。1本はオークション用で、その他7本が売りに出された。オークションでは1億円を超える値がついたという。ブレゲが発明した至高の複雑技術トゥールビヨン、ミニッツリピーター、パーぺチュアルカレンダーなどの超複雑機構はもちろん、ヴァシュロン・コンスタンタン社が誇る技術のすべてが投入されたという。あと、50年もすれば、歴史的価値をもつ時計になるかもしれない。でなければ、たかが腕時計一つに1億円はないだろう。
■核戦争と機械式時計■
数千円もだせば、高精度のクォーツ時計やデジタルウオッチが買えるのに、なんで、数十万円〜数千万円もかけて、精度の劣る機械式時計を買うのか?ブレゲが発明したトゥールビヨンは、今ではコストパーフォーマンスに劣るが、それでも機械式時計マニア垂涎の技術である。時計は時間を計る道具だと信じ込んでいる人にとっては、馬鹿げた話だ。だが、機械式時計を愛するコレクターには、そうしなければならない理由が山のようにある。
そもそも、時間とは途切れのない連続体なのに、電子式時計はほとんど止まっている。水晶振動子が振動するタイミングでのみ動いて、時間をカウントするだけだ。一方、機械式時計の歯車は一瞬も止まることなく、連続して時を刻む。つまり、電子式時計が刻むのは『偽りの時間』で、機械式時計だけが『本物の時間』を刻む。それに、あの精緻で複雑な機構を見ても、鳥肌が立たない?天才ブレゲの頭脳と技術を、自分の腕に着けてみたくない?そう、彼らは、機械式腕時計500年の歴史を背負っている。
ところが、どう反論されても、想像力が貧しい凡人には、「ムダにすごい」としか思えない。だが、一つだけ、機械式時計にも実利がある。歴史の未来、つまり、やがて起こるだろう全面核戦争だ。もし、地球上で全面核戦争が起これば、直撃をまぬがれたとしても、多くの電子機器が破壊される。核爆発時に発生する強力な電磁パルスが、電子機器の導体に誘導電流を発生させ、部品を破壊するからだ。その範囲は、爆発地点から、100km〜1000 kmにも及ぶと言う。
全面核戦争が起これば、歴史は100年は逆行するだろう。つまり、電子時計に必要な電池が入手できるかどうかもわからない。一方、核の冬の過酷な世界では、時刻は重要な情報となる。ところが、世界の標準時を知らせる公的時計のほとんどは電子時計。核戦争の後では、機能していない可能性が高い。つまり、時間を知る手だては、自分の腕にある時計だけとなる。それが電子式なら万事休す、先の電磁パルスで破壊されている可能性がある。一方、機械式時計なら、部品を溶かすほどの大電流が流れない限り、大丈夫である。だいたい、そんな大電流が流れる状況では、本人も死んでいる。
つまり、核戦争に備えるなら機械式時計。ブレゲもあの世でほくそ笑んでいることだろう。
《つづく》
by R.B
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